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野上清光のこと

子供を図書館に連れて行き、手が空いたところで何気なく手に取った「週刊ベースボール」は外国人選手特集だった。特集の最後に黎明期から現在までの全外国人選手の顔写真と簡単なプロフィールが紹介されていた。

そこにはキヨ・ノガミこと野上清光の名もあった。しかし、1ページを7×5に分割した紹介枠に書かれていたプロフィールは、短い野球選手時代を簡単にまとめただけであった。確かに、3シーズン59試合、打率.213、三塁打本塁打ともに0。パッとする選手ではない。しかし、彼の人生は引退後が興味深いのである。

野球人からビジネスマンに

野上は名門カリフォルニア大学バークレー校を卒業後、富豪ハリー・コーノが組織した日系人チーム「アラメダ・コーノ・オールスターズ」に入団。1937年、暗雲漂う日米関係にもかかわらず、親善試合のため桑港サンフランシスコから秩父丸で来日する。野上は山田伝(フランク・ヤマダ)とともに日本にとどまり、阪急軍(戦後の「阪急ブレーブス」)と契約した。

山田がヘソ伝と呼ばれ、戦後まで球場を沸かせたのに対し、野上のプロ野球選手生活は前述の通りである。1938年秋シーズンをわずか1試合出場しただけで引退し、英語を武器に丸紅に入社する。

日米開戦後もアメリカに戻れず、召集されると満州で通訳を務めた。仕事の実態は諜報活動だったようだ。戦時中のそのような経歴からアメリカ国籍を喪失し、戦後は日本国民として生きていくことを余儀なくされるのである。

しかし、そこから野上のサクセスストーリーが始まった。まず彼は、他の日系アメリカ人二世らと「二世商会」を起業。進駐軍相手に様々な商売に乗り出す。

蒸し暑い日本の夏。進駐軍とその家族の間でアイスクリームが飛ぶように売れていることに気づいた野上らは、アイスクリーム事業を始めた。最終的には日本におけるアイスクリームコーンの製作と販売をほぼ独占する。二世商会は「日世」と社名を変更したが、現在もなお日本最大のコーンメーカーである。

殺人事件

1991年、野上は日世副会長として事実上の余生を送っていた。77歳の誕生日を翌日に控えた9月29日。妻と自宅近くのレストランで昼食を取り、愛犬の散歩に出かけた。その散歩中、バイクに乗った少年2人に絡まれ刺殺されたのである。

殺害される数日前にも、野上は暴走族に頭を殴打される被害に遭っていた。現場近くにナイフやバイクの物証が残され、目撃証言もあったが、事件は迷宮入りする。太平洋戦争中の諜報活動に絡んだ陰謀なども囁かれたが、警察を含めて大多数の人は暴走族の騒音を注意したことがきっかけだろうと考えていた。

数年後、事件解決の光は突然訪れた。元暴走族の解体工が警察署を訪れ、「老人を刺したことがある」と告白したのである。事件の日時場所から、彼の言う老人が野上清光であることは明白だった。

しかし、事件の全体像は大多数の想像を超える、複雑で醜悪なものであった。出頭した解体工Cは「人に殺害を頼まれた」と言うのである。その依頼主とは出頭時、別の事件で刑務所に収監中のAであった。Aは事もあろうか自分の息子Bに、偶然を装って野上を殺害するように頼んでいたのである。BとCは暴走族仲間であった。目撃証言された「バイクに乗った少年2人」とはBとCのことである。

そして、事件の闇はここでは終わらない。Aもさらに別の人物から殺害を依頼されていたのである。埼玉県で金融業などを手がける東又長次が首謀者であった。野上の財産を狙っての犯行だった。詳細は遺族のプライバシーにも関わるため割愛しよう。東又には無期懲役が言い渡されるが、上告中に病死した。

特筆すべきはCが出頭した経緯である。

Cは事件後まもなく暴走族をやめ、定職についた。結婚して子供も儲けた。しかし、子供が幼くして病死する。その頃から、自分が数年前に殺した老人が枕元に立つという夢を見るようになった。

―あの子が死んだのは自分が犯した罪のせいだったのではないか―

子供の死によって人命の重さを知り、芽生えた良心がそのような夢を見させたのであろうか?Cは涙を流しながら、暴走族時代世話になった少年課刑事に殺人を告白したそうだ。Cの出頭が無ければ、迷宮入りのまま時効を迎えていたであろう。彼には比較的短い懲役刑が科せられた。